No.1 2019/10/13

金木犀は二度香る。
一度目は秋の訪れに。
二度目は散り際に。

ナホさんと『カタルsisのぬるゆ』を始めて二年が経った。

日常の紆余曲折をなんでもドラマティックだと楽観するあまり、ふいにやってくる帳尻合わせめいた局面にめっぽう弱いわたしは、そのたび、いまの自分を肯定できない迷路で彷徨う。
「みんなそうだよ」という声はちゃんと耳に届くけれど、暗中模索のとき、こころにはうまく沁みないものだ。

剥いても剥いても冴えないわたしがいる。
どん詰まり。
でもどうして、途方に暮れた頃合いでいつも浮上の兆しがみえる。
浮上…?
つまり、あきらめた?吹っ切れた?降参の旗を上げた?
言葉を変えればそうとも言えるこの現象は、不思議と自分の輪郭をぐっと濃くしてくれる。

自画像のデッサンに似ているな、と思う。
「自分を描くのって終わらせにくいでしょう」
なかなか描き上がらないわたしに、デッサンの先生が言ったっけ。

鏡を見つめるうちに自分の顔がどんどんわからなくなる。
それでも目を凝らしてひたすら鉛筆を動かす、筆致を重ねる。
いつまでも完成しない気がして、引き際を決めて鉛筆を置いてみる。
闇雲だったせいで気付かなかったけれど、わたしという輪郭がすでに出ていて、これがいまの自分の顔だと思える。
向き合った過程を物語るかのような陰影や濃淡がわたしを象る。

思えば、こんなふうに自画像デッサンみたいなことを繰り返しながら生きている。
確かな答えに辿り着けなくても、自分自身を捉えた実感は「在る」自信になり、救いになる。 『カタルsisのぬるゆ』を始めたきっかけも似ているかもしれない。
等身大の自分たちを刻む、ひとつの試み。

白か黒に分け切れないグレーを掬い上げること。
ぼんやりとした想いにかたちを与えること。
名もなき過去を取り出していろんな方向から眺めること。
とりまく世界の変化を受け容れること。
なににも代えがたい宝物を発見すること。
喜怒哀楽を堰き止めないこと。
すきなものをすきだと宣言すること。
わからないものをいまはわからないと認めること。
それをとりとめもなく繰り広げ、記録する。
ひとりよりふたりならもっと愉快だし、視線が心強いものになると思った。
Podcastを選んだのは、おしゃべりには感情の揺れが滲むから。
話すのが上手ではないわたしたちが不器用に紡ぐ言葉こそ生々しい。
人生の酸い甘いを噛み分け中のわたしたちがいまここに「在る」。
『カタルsisのぬるゆ』という場所をその証にしたかった。

ここ数年、相方のナホさんとわたしの生き様はなぜか並走の体を保っている。
そのせいか、言葉以上で会話できるときがある。
同じ大学で青春時代を過ごしたので、共有しているものが多いのも大きいと思う。
たまに真逆の性質が散見するけれど、お互いにおもしろがって尊重する。
なにしろ気が合う。
ナホさんは出だしの遅いわたしの背中をいつも押してくれる。
ぬるゆを始動できたのもナホさんのおかげなので、とても感謝している。

わたしたちはそれぞれの経験上、ひとつのことを続ける難しさをすこし知ってしまった。
だからこそ、『カタルsisのぬるゆ』は長く未来に伸びていくものにしたい。

日々、五感を駆使して生きていても、記憶からこぼれ落ちる出来事や留まっては流れていく想いが無数にある。
でも、その痕跡はきっとひそやかに残る。
ぬるゆでのおしゃべりは、風化しかけた痕跡を辿ること。
そして、金木犀が再び香り立ったときのように、よみがえってきたなにかと邂逅を果たせたら、わたしは幸せ。
自分が「在る」実感に導かれて、人生やめらんないな、と思ったりするんだろう。 (つん)